「音質」という単語の謎
私が、当ブログやtwitter、Facebook等含めて、なるべく使わないように気を付けている言葉があります。
それは「音質」です。
とても取り扱いが難しい単語と感じています。
本来は、技術的、定量的に表現、比較ができる「品質」や「測定可能なスペック」が主な「音質の尺度」だったはずなのですが、いつの間にやら、官能的、情緒的、文学的な表現に支配される、わけのわからない世界の入り口の言葉になってしまっています。
(だからと言って、官能的、情緒的な感覚や体験の表現自体を否定するものではありませんので、念のため。)
よく、○○のシステムは「音質がいい」とか「高音質」とかいうけど、「音質」が何のことだかわかって使っている人っているのでしょうか?
改めて聞かれると、とっても説明しにくいと思いませんか?
特に前提条件、評価基準が明確になってない。
そもそも品質や性能(物理特性)のことを言ってるのか、音色や音調(主観評価)のことを指してるのかよくわからなかったり。。。
簡単な言葉ですが、前提条件が分かってないと、これほどあいまいなものもそうそうないですよね。
特に、主観的な評価が非常に難しい。
人には五感といわれる感覚があります。
いわゆる視覚、嗅覚、味覚、触覚、聴覚です。
これらの感覚によって認識された「事象の評価」っていうのが極めていい加減なものですし、以前のエントリーにも書きました通り、人によって感じ方(感度、特性)が違ううえに、その人の判断基準(価値観)によってもコロコロ変わります。
たとえば、あなたの友達が突然「あ!いい女(男)がいる!」と言ったとします。
あなたの反応はどうでしょうか?
「え?どこどこ?あそこにいる人?」と興味を示した後、「あ、本当だ」となる人、「え?、あんまり良くないじゃん」となる人などさまざまですよね。
場合によっては、「ふ〜ん、良かったね」と特に興味を示さない事もあるかもしれません。
これは、人物の外見に対する判断基準(価値観)が人によって違うことを端的に示しています。
もちろん、ミスコンなんていうのもあるくらいで、時期や場所、数がまとまると、多数決的に「ある程度客観的な」いい男、いい女の傾向というか基準のようなものが出来てはきます。
ただし、これも時代、地域、社会状況、文化などでも移り変わりや違いがあり、絶対的、普遍的とは言い難いものでもあります。
(女性はふくよかでないとダメな地域もあるとか。。)
ただ単に「高音質」「音質がいい」と言っても、そのままでは、なにがどういいのか全く判りません。
しかも、最終的な評価は自分自身の主観で下さなければなりません。
(だから難しいし、面白いところでもありますが。。)
では、音の主観評価における善し悪しには、普遍性、客観性はないのでしょうか?
先程のミスコンの様に多数決と言う方法があり、これを音にも採用してみましょう。
より多くの人が「いい音」と感じた音が「いい音」という判断の仕方で、かなり客観的に善し悪しが区別できそうですね。
しかし、大勢の人がいいと思っても、そう思っていない人も多少にかかわらずいるわけで、なぜいいのか、何がいいのかを具体的に説明して、みんなに納得してもらわなくてはなりません。
つまり、誰にでも理解できる「評価の基準」がどうしても必要です。
ハイ。
実は、音響装置(オーディオ機器)の評価を、再生音のヒアリングで行う場合の評価方法や、音質の表現(形容)方法は決められています。
「実は」と前置きしたのは、そのことや具体的な内容を知らない人が殆どであることと、この評価方法を採ったり、規則通りに表現している評論家先生はほとんどいないのが実態ですし、評価の正確性を上げるには多人数が必要なので、個人で再現するのはほぼ不可能だからです。(評価方法や表現を知っておくのは重要なことですが。。)
特にオーディオ雑誌やwebなどの評論家先生の記事って、分かったようで実は分かりにくい表現の羅列だったりしますよね。
「パンチが利いている」「芯が太い」なんていうのはまだいいほうで、「窓枠を取り払ったような」「ヴェールを剥いだような」なんていわれたりして、はてさてどんな音なんだかさ??っぱりわからんちん。(苦笑)
却って人心を惑わしてるだけのようにも思えたり。。
しかも、評論しているその商品、サウンドを悪くいう記事はとても少ない。
なぜそんな分かりにくい表現がまかりとおるのか?
これは非常に簡単な理屈に帰結できます。
評論家先生は評論することでお金をもらっている。
→お金を稼ぐためにはいっぱい書かなくてはならない。
→いっぱい書くには人気がなくてはならない。
→人気を得るためには人と違う特色が必要である。
→特色を出すためには表現を変えなくてはならない。
加えて、メーカーは商品を売るため、
あの手この手で宣伝文句を考え広告をうち、
販売店へのリベートを出したり、
新商品の評価の時には評論家先生へのツケトドケも持参したり、
雑誌のページを買い取って記事を書いてもらったり・・
なんていうことまでして、「日々是努力」をしています。
かくして、何となく高級そうな、抽象的な表現が巷にあふれることになります。
つまり、これは自由経済社会では仕方のないこと。
逆に言えば、雑誌のベタ褒め評論記事、カタログの御託宣は鵜呑みにせず、眉にツバを10回位付けて読むのが正解ということです。
そして、他人の下した評価も、その人が言おうとしていることを自分の尺度に置き換えて理解することが必要です。
(いわゆるベストバイ商品を実際に聴きもせずに買い求めたり、掲示板の評価を信じて買ったら、orz したとしても、責任は自分にあるということです。)
とはいえ、
「人の話を鵜呑みにしない」
というのと
「異なる意見をやみくもに否定しない」
って、バランスが難しいですね。。
そこで、とても簡単な方法を提案します。
「良い・悪い」「優れている・劣っている」を「好き・嫌い」と読み替えます。
時と場合により「心の中で」。。。
優劣で語ると喧嘩のネタになりますが、好き嫌いなら趣味趣向の違いと納得しやすくありませんか?
好き嫌いなら、自分の尺度に置き換えるのもある程度楽だと思います。
大体の場合、これでうまくいくはずです。
ちなみに、私の場合、
ヒアリングでの主観的、定性的な評価を表現する場合、感覚的、感情的な表現には「音」「サウンド」をつかい、性能にかかる表現には「〜感」「〜と感じる」などとするように心がけています。
測定できるものはそのものズバリ優劣を言い切ることもありますが、主観評価はあくまで私の感覚ですので、どういう風に感じたか、優劣ではなく好き嫌いで表現するようにしています。
なるべく。。。(笑)